ごきげんよう
『学問のある人を教養人というのではない
人の辛さに敏感である
そういう人を本当の教養人と呼ぶ』
太宰 治
深い言葉だなと思います
相手の立場で物事を考えることすらも難しい ・ ・ ・
そこで
わたしも、及ばずながらも教養人について考えてみました
題して、教養人としての心得十一箇条
第一 恥を知っている人
・平気で人を陥れる
・平然と人を騙す
・躊躇なく人を踏み台にする
これらの行為が罪悪であると同時に
人間として恥ずべき行為であることを理解していること
第二 正邪善悪の区別ができる人
人間は善の下に生まれ出でた瞬間から
悪の蔓延る世界の中で生きていくことになります
『泥水をくぐりて清き蓮の花』
この言葉が誰の言葉なのかはすっかり忘れてしまいましたが、蓮の花は泥水を啜りながらでも美しい花を咲かせます
人間も此の暗黒の世界に在ったとしても、蓮の花のように清らかな人生を創っていかなければならないといった意味でしょうか?
時に人は欲望に駆られ支配され、正邪善悪の区別がつかなくなる
否、心の底で理解はしていたとしても詭弁を弄して己の心をなだめます
例え区別出来たとしても、その心に忠実に行動することは難しいことです
第三 自身の感情に振り回されない人
権力や大金を手に入れると、自身の感情を制御するストッパーがいつの間にか外れて自身に与えられた特権であるかのごとくに振る舞う輩が世の中には実に多く存在します
感情の命ずるままの言動が出来るということは本人にとってはある意味快楽といっても良いと思いますが対峙する側からすれば、暴力行為と同義です
第四 謙虚である人
人は皆、両親はもとより沢山の人やお陰さまの下に尊い命を頂いて生まれてくる
人が生まれる場所は例外なく下座です
それが、いつの間にか「生かされている」から「生きている」という単純な解釈の間違いを犯します
高慢な態度や傲慢な姿勢がその強いエネルギー故に成功者と成ったり、時として世の中を席捲することが往々にしてありますが、我々は勇気を持って、あらゆる意味を込めて取捨選択をしなければなりません
近付かない、相手にしないことは簡単なのですから
第五 他者との距離感を大切にできる人
人間関係は、この距離感を如何に節度を持って保つかという行為に尽きると思います
一言が多くて人を傷つけてしまったり、一言が足りなくて真意が相手に伝わらずに誤解される
特に、人の心に土足で入り込むのは慎まなければなりません
第六 他人の不幸やうわさ話を蜜の味として楽しまない人
他人の不幸やうわさ話が蜜の味であることは週刊誌のゴシップ記事やテレビのワイドショー、Webニュースを確認するまでもありません
他人の不幸を味わうことで、己のささやかな幸せを確認すること
他人のうわさ話に興じることで、自分の大切な時間を浪費すること
もったいないことに、老人の域に入った人にも沢山見受けられます
でも、その姿を確認する眼には見苦しく、そして哀れな人生が映っています
心の糖尿病は、治りません
第七 感謝することができる人
・邪な心根には感動は起こらない
・感動する心には感謝の気持ちが起こります
・感謝することが出来る人は夢を持つことが出来ます
・夢を持った人は、其れに向かって行動することが出来ます
・行動した人は、其れを基に反省することが出来ます
・反省することが出来る人は、即ち成長することが出来ます
第八 倹約することができる人
浪費は美徳では決してない
在るモノを活かす、活かし切ること
すべてを活かす
本来、そのモノが与えられていた意味に新しい意味を持たせて活かすこと
これ程の贅沢が在るでしょうか?
第九 勤勉である人
樹は死ぬる直前まで成長するそうです
過去の栄光に縋ったり、未来の夢の霞に浸るだけではなく、今を精一杯生きることに精進出来ること
第十 信仰心のある人
此処でいう信仰心というのは特定の宗教を指すものではなく、大いなる自然の摂理に対する畏敬の念を持つということ
『音もなく、香もなく
常に天地(あめつち)は
書かざる経を繰り返しつつ』
この言葉は、一体誰の言葉であったでしょうか?
第十一 世の中の役に立つことを考えられる人
尊敬する安岡正篤氏は述べておられます
『人は何のために学ぶのか
人は自分を創るために学ぶのだ
中 略
自分を創るのは利己のためではない
世のため人のために自分を役立てるためである』
こうして教養人について考えていたつもりが、いつの間にか、そうでありたいという理想像を連ねていました
それではまた、お会いしましょう。
ごきげんよう
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